2007年 03月 29日
「氷点(上・下)」 「続氷点(上・下)」三浦綾子(角川文庫)
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辻口啓造は、旭川にある病院の院長を務める。真面目で温厚な人柄だ。
ある日、妻の夏枝が同病院の医師と会っている間に、幼い娘ルリ子が見知らぬ男に殺害される。
妻の裏切りに対する憎しみを心に秘め、「汝の敵を愛せよ」の言葉どおり一方では善人の顔で、一方では妻への復讐のため、啓造は、ルリ子を殺めた犯人の娘を養女に迎える。
陽子と名付けられた娘は明るく美しく成長し、夏枝や兄徹に愛されるようになるが…。
ご存知「氷点」は、
人間の原罪とは何かを追及した問題作、
である。
「続氷点」では、自分の素性を知った陽子が自殺を図った後の物語。
命を取りとめた陽子だが、さらに別の運命に行き当たってしまい…。
罪のゆるしを問う人間の葛藤を描いている。
クリスチャンであった三浦綾子さんの作品にはいつも教えが根底にある。
ストーリーよりもそっちに重きを置いているような気がしないでもない。
私は信者ではないが、聖書は学生時代や、英会話スクールの授業の中で少し触れていたことがある。
そのときは「そんな偽善な…」という思いのほうが強かったが、後に仏教なども学んでみると、結局は人間があるべき基本的姿というものは、誰が説いてもその根本は変わらないのだと思うようになった。
だから小説の中から教訓として残る言葉も多い。
例えば、罪については、
人は知らない間にさまざまな罪を犯している生き物であると。殺人や強盗などの大きな罪は誰の目にも分かる。しかし、嘘をつくとか、人の悪口を言うとかの日常茶飯事のことは罪と認識していない。
「自分が無数の大小の石を、毎日積み上げて来たような気がした。そして、そのぼう大な石の山にすわって、自分には罪はないと、思いたがっているような気がした」
と啓造は言っている。
また、人はいかに自分中心であるか、我が強いから相手を赦せないのだということも気づかせてくれる。
「自分がこの世の正しさの基準だと思っているのが、人間の世の中だ」
「自分たち夫婦がどこかしっくりと行かないのは、常に相手を正しくないと責めているからだ。相手を正しくないというのは、自分は正しいと思っていることなのだ」
「自分を善いとか、正しいとか思っている人たちの家庭には、けんかが絶えない。自分が悪かった、まちがっていたと思っていて、けんかになることはない」
とここでも啓造は気づく。
この小説の中では、正しくない人間は夏枝であったり、村井であったりする。が、それは啓造や陽子のほうが立派な人間であると思い込んでいるからだ。
外に出さなくても、心の中で起こした業(罪)も同罪だ。
世の中のあらゆる争いごとや妬み、誤解などは、人間の愚かさゆえに起こるものである。
自分というものは宇宙の中のちっぽけな存在であると認識することで、どんなに憎い相手もまた自分と同じ人であると認めることができる。
良い話を聞いたときや、自分が穏やかであるときは人にきつく当たることはほぼない。
自分がつらいときや、不当な目にあったときも、常にこういう気持ちを保てればいいのだが、薄っぺらな人間ごときではなかなか難しい。
こういう小説などで刺激を受けたときくらい、心に留めておきたいものである。
ある日、妻の夏枝が同病院の医師と会っている間に、幼い娘ルリ子が見知らぬ男に殺害される。
妻の裏切りに対する憎しみを心に秘め、「汝の敵を愛せよ」の言葉どおり一方では善人の顔で、一方では妻への復讐のため、啓造は、ルリ子を殺めた犯人の娘を養女に迎える。
陽子と名付けられた娘は明るく美しく成長し、夏枝や兄徹に愛されるようになるが…。
ご存知「氷点」は、
人間の原罪とは何かを追及した問題作、
である。
「続氷点」では、自分の素性を知った陽子が自殺を図った後の物語。
命を取りとめた陽子だが、さらに別の運命に行き当たってしまい…。
罪のゆるしを問う人間の葛藤を描いている。
クリスチャンであった三浦綾子さんの作品にはいつも教えが根底にある。
ストーリーよりもそっちに重きを置いているような気がしないでもない。
私は信者ではないが、聖書は学生時代や、英会話スクールの授業の中で少し触れていたことがある。
そのときは「そんな偽善な…」という思いのほうが強かったが、後に仏教なども学んでみると、結局は人間があるべき基本的姿というものは、誰が説いてもその根本は変わらないのだと思うようになった。
だから小説の中から教訓として残る言葉も多い。
例えば、罪については、
人は知らない間にさまざまな罪を犯している生き物であると。殺人や強盗などの大きな罪は誰の目にも分かる。しかし、嘘をつくとか、人の悪口を言うとかの日常茶飯事のことは罪と認識していない。
「自分が無数の大小の石を、毎日積み上げて来たような気がした。そして、そのぼう大な石の山にすわって、自分には罪はないと、思いたがっているような気がした」
と啓造は言っている。
また、人はいかに自分中心であるか、我が強いから相手を赦せないのだということも気づかせてくれる。
「自分がこの世の正しさの基準だと思っているのが、人間の世の中だ」
「自分たち夫婦がどこかしっくりと行かないのは、常に相手を正しくないと責めているからだ。相手を正しくないというのは、自分は正しいと思っていることなのだ」
「自分を善いとか、正しいとか思っている人たちの家庭には、けんかが絶えない。自分が悪かった、まちがっていたと思っていて、けんかになることはない」
とここでも啓造は気づく。
この小説の中では、正しくない人間は夏枝であったり、村井であったりする。が、それは啓造や陽子のほうが立派な人間であると思い込んでいるからだ。
外に出さなくても、心の中で起こした業(罪)も同罪だ。
世の中のあらゆる争いごとや妬み、誤解などは、人間の愚かさゆえに起こるものである。
自分というものは宇宙の中のちっぽけな存在であると認識することで、どんなに憎い相手もまた自分と同じ人であると認めることができる。
良い話を聞いたときや、自分が穏やかであるときは人にきつく当たることはほぼない。
自分がつらいときや、不当な目にあったときも、常にこういう気持ちを保てればいいのだが、薄っぺらな人間ごときではなかなか難しい。
こういう小説などで刺激を受けたときくらい、心に留めておきたいものである。
by mam-san
| 2007-03-29 12:32
| (ま行の作家・他)